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普通であることへの憧れ ~敬語、友人たちや親戚たちの中で~

目次

敬語で話すという躾 ~年若いバイリンガル~

父の教育はかなり独特で強烈だった。私が最初に覚えた言葉は敬語であったし、両親の呼び名は「おとうさま」「おかあさま」だった。空は「おそら」、本は「ごほん」だった。 この教育方針は、最初はうまくいっていた。かわいらしい小さな女の子が丁寧な言葉遣いをしているだけなので、何の弊害もない、家にいる限りは。大人たちには「あら、いい子ね」と言ってもらえるので、青自身も特に不自由も違和感も感じてはいなかった。TVの中には「きたないことば」を喋る人たちがたくさんいたが、あれはTVという特殊な世界の中でのことだ・・・

私が初めてカルチャーショックを受けたのは、幼稚園に入ったときのことだ。私は親から教わった通りの敬語で友達に話しかけたのだが、相手から「青ちゃんのことばは、何言ってるのかわかんない」と返された。周りの子たちは皆TVの言葉で喋っている。もちろん自分もTVの言葉は聞き知っているので、自分自身は友達の言葉は理解できるのだ。しかし、自分の言葉は友達に理解してもらえない。

これ以来、私は父のいないところで猛特訓して、友達言葉を習得した。 「・・・だよ。」「・・・ですよ。」「だよ。」

友達言葉を大人に聞かれて叱られるのではないかとビクビクした。主に幼稚園と自宅との行き帰りのバスが、言葉の切り替え点になった。幼稚園に着くと、友達言葉になった。帰りのバスを降り、友達と別れて母と二人だけになると、敬語に戻した。切り替え時というものは、とてもナイーブであり、人に知られるのは気まずく、嫌だった。友達が家に来るような場面では言葉をどうしたものか迷い悩んだ。特に、「お誕生日会」的なものが苦手だった、すなわち友達と家族が混在するような状況が。
苦労だらけの年若いバイリンガルであった。

小学校に入ると、何かの折りに自宅に電話をかけなければならないことがあった。「連絡もれがありました」とか、「半日授業ではなく夕方まで授業のある日でした」とか。当時は携帯電話がなく、学校の事務室前の赤い公衆電話から10円玉を使って家に電話をかけるしかなかった。私が電話をかけようとすると、クラスの男子たちが「おーい、青が家に電話するぞー!面白いから聞こうぜー!」と囃しながら、わらわらとついてきてしまい、とても困るのだった。

普通の子でいられる時間の喜び ~高揚、大目玉、トラウマ~

親戚の家に遊びに行ったり、親戚たちが家に来たりすることは、幼い自分にとって、夢のように楽しいことだった。よく、伯父叔母に相手してもらったり、従姉妹たちと遊んだりしてはしゃいだものだ。しかし、その楽しい時間の直後に、必ずと言って良いほど母から怒られた。「なんでちゃんとしていられなかったの」と。当時、私にはよくわからなかった。怒られるほどの悪いことをした覚えがなかったからだ。とりあえず、「楽しむことはいけないことなんだ」ということだけは強烈に刷り込まれた。
親戚の家に遊びに行った後よりも、特に親戚たちが自宅に来た後の方が衝撃が強かった。おそらく、帰路というクッションがないからだろう。見送った親戚の姿が家の門から見えなくなった瞬間が、母のお目玉の開始時刻であった。母から「ほら見なさい、(叔母が)怒って帰っちゃったわよ」と言われたこともあった。笑顔で手を振って別れた叔母が、実は怒っていたってこと!? 
今思えば、母は「(親戚の前で)ちゃんとしていなさい」という一点において怒っていただけなのだろう。しかし、幼い自分にとっては、怒って笑顔で帰った親戚なんて、不可解そのものだった。わからない、わからなくて恐ろしい・・・。そして、そもそも「ちゃんとしている」ということがどういうことなのかも、さっぱりわからなかった。
親戚が帰り支度をする頃にはいつも、私は、泣きそうな思いで「お願い、帰らないで・・・」と祈らずにいられなかった。

ある年のお正月、例年のように祖母宅に集まり、わいわいとやっていた。そのうち、近くのお店に行くことになった。伯父の一人が、おもちゃのネックレスを買ってくれた。プラスチックのピンク色のネックレスだった。年の近い従姉妹も同じものを買ってもらった。私は従姉妹とおそろいのネックレスを手にして有頂天だった。「おそろい!おそろい!」と、伯父叔母たちに見せて、「あらかわいいわねー」と言ってもらうのがうれしかった。
その日、自宅に帰ると、両親から大目玉を食らった。悪いことをした自覚がなかったので、よくわからなかったし、怖かった。父と母の言い分は同じではなかったと思う。母は、「こんなものをおねだりしたっていうの? Kちゃん(従姉妹)と同じに成り下がって、一緒に喜ぶなんて。みっともない。買ってあげると言われた時に断ればよかったんじゃないの?」と。父の言い分は少し異なっていた(というか、ずれていた)、「自分で作るアクセサリーのキットならばともかく、こんなできあがったものを手に入れて何が楽しいんだ?」。しかし、そもそも、これは自分からねだったものではなく、伯父が選んで買ってくれただけだ。私は、よくわからないまま、泣きながら謝った。ネックレスは机の引き出しにしまった。
翌日、引き出しのネックレスを見たとき、背中にすっと冷たいものが走るのを感じた。なんとも言えない、ぞわっとした嫌な気分だった。 私は、しばらく思い悩んだ後、「これ見ると怖くなるので持っていたくない」と言って母にネックレスを渡した。母は、うれしそうな笑顔で父に向かい、「青がね、これ見ると怖いから要らないですって!」と報告し、父も「おお、それはいいことだ」と満足そうな表情をしていた。娘の躾がまたひとつうまくいったということだろう。ネックレスはどうなったかわからない。おそらく母が捨てたのだろう。しかし、あのプラスチックのピンク色のネックレスは、数十年経っても鮮明に記憶に残っている。従姉妹のは淡いベビーピンク、私のは少しだけ色の濃いピンク色だった。写真のようによく覚えている。

振り返って思うこと

親戚たちの集まりが楽しかったのは、ただ遊ぶのが楽しかっただけではなかったと思う。それよりも、「まるで普通の子みたいになれる」時間がこの上なく幸福だったのだ。

親戚が帰ると同時に怒られる経験(これは、間違いなく「叱られた」のではなく「怒られた」のだ)により、「楽しむことは悪いこと」という刷り込みがなされていく。

ピンクのネックレスの事件では、明らかにトラウマ反応が引き起こされている。本来であれば、「これを見ると怖くなるので持っていたくない」という台詞を聞いた時点で、親には事の重大さに気づいてほしかったと思う。娘の反応をみて躾の成功に大喜びするのではなく、むしろトラウマケアをしてほしかった。

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この記事を書いた人

虐待サバイバー医師です。内科医兼精神科医です。医学部再受験の時のことや、自身の歩んできた道、思うことなどを書いていきたいと思っています。

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