
幼い頃の記憶を少しずつ綴っています。読んでくださる方の心に、何かが届くことを願って。
持ち主ではない母が弟に「シートン動物記」を貸している
小学生のある日、学校から帰ると、弟が床で本を読んでいる。
あれ?この表紙は・・・?
見覚えがあるどころの話ではない。私の愛読書の「シートン動物記」だ。
青「弟ねずみくん、それどうしたの?」
弟「借りた。」
その時、まず私の頭に浮かんだのは、
「借りたって、わざわざ図書館か友達から? これ、私が持ってるのとまったく同じ本じゃないの。 言ってくれたら私が貸してあげたのに・・・」
ということだった。
そう思いながら本棚に目をやると、なんと、私の「シートン動物記」の第一巻が抜けている!!!
青「ちょっと、どういうこと!? 私の本なんだけど!!」
母「弟ねずみくんが読みたいっていうから貸したのよ。」
青「それは違うでしょう。貸すかどうか決めるのは私でしょ。」
母「青ねずみは、弟に本一冊も貸してあげられないの? この世にたった一人の弟なのよ。」
青「そういう問題じゃない! 返して!!」
私は弟が読みかけていた本を取り返して本棚に収めた。
振り返って思うこと
これは、弟を攻める話ではない(当然だ)。責めを負うべきは、母親である。
母の本ではないのだから、貸すかどうかを母が決めてよいわけがない。
弟ねずみが本を読みたがったとき、母のすべきことは、勝手に本を貸すことではなく、
「お姉さんが帰ってきたら、貸してくださいってお願いしましょうね」
と声をかけることである。
今回の場合も、真っ先に頭に浮かんだのは
「私が貸してあげるんだから、わざわざよそで借りる必要なんてないのに」
という思いだった。正しい手順が踏まれさえすれば、弟を喜ばせたい気持ちは十分にあった。なにしろ、私は「仲良しにならなくちゃ」と必死だったのだから。
本件以外にも、本当であれば(親が立ち回りを誤りさえしなければ)弟と仲良くできたかもしれない場面は、そこかしこにあったのだ。
(しかし、母は表面上は「兄弟仲良くしてほしい」と言いつつ、心の深層では仲良くなってほしくない思いも持っていたのかもしれない。これについては、数十年経過後にやっとパズルを解く日を迎えるのだが・・・)
バウンダリーの問題も無視できない。
母は、自身と他者の境界線の曖昧なところがあった。特に、同性である娘との境界線が曖昧になりやすかった。母にとって、娘の本は、まるで自分の本のような感覚だったのかもしれない。
「たった一人の弟」と言うが、「たった一人のお姉さん」とは言わない
上記の会話に、母の
「この世にたった一人の弟なのよ」
という台詞があった。母は私に向けてこの言葉を多用した。これも、ほぼ呪いの言葉である。
「この世にたった一人の弟よ、大事にしないでどうするの。」
その一方で、母が弟に
「この世にたった一人のお姉さんなのよ」
と言って聞かせているのを聞いたことがない。



弟ねずみはお姉さんを大事にしなくてもいいらしい・・・
「そんな感傷的な言葉を使ってもしょうがないんだからね」
似た話をもう一つ。
弟は、私に何かを見せびらかして、欲しがらせたり焦らしたりして面白がることがよくあった。
小学生時代の弟は、近くの市民文化センターの入口で好きなチラシをもらってきては私に見せびらかしていた。落語や工作イベントやミニコンサートの類いであったが、特にその時二人が好きだった落語のチラシのことが多かった。
弟「見て!ほらほら!お姉さんこれほしい?」
青「いいなー。2枚あるならほしい。」
弟「どうしようかなー。あげようかなー、やめようかなー。」
青「ちょうだい。」
弟「お姉さんかわりに何くれる?」
青「かわりの物がなければくれないの?」
弟「じゃ、やっぱやーめた。」
青「なんでそういう意地悪を言うわけ!?」
弟「じゃ何くれる?」
青「なんでそうなるの? チラシ1枚、相手のために持ってきてあげようという気にならないの? 兄弟じゃない。家族じゃない。」
母「馬鹿ねえ青。そんな感傷的な言葉を使ってもしょうがないんだからね。」
母よ。意味がわかりません。感傷的ってなに?
ここに『感傷的』などという単語が出てくること自体、場にそぐわないが、百歩譲るとしても、「この世にたった一人の弟」の方がよほど感傷的な表現ではないですか!?
振り返って思うこと
ここにも、姉弟間の格差がはっきりと見て取れる。母が弟に「お姉さんを大事にしなさい」という指導をしないことに関しては、一貫していた。