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近視は禁止 ~娘には欠点があってはならないということ~

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失明の恐怖 ~近視の果てに失明すると信じ込まされていた幼少期~

両親二人とも近視だったので、私が小学生の頃に近視になったとしても、まったく不思議なことではない。しかし、娘が近視になることは、父にとっては許しがたいことであったようだ。 父は、「暗いところで本を読むんじゃない、いつか目が潰れるから。」とよく言っていた。恐ろしい言葉だった。学年が上がるごとに視力検査の数値が少しずつ悪くなっていくことが恐怖だった。私は子供心に、自分はいつか失明するのだと思うようになった。あとどれくらい見えるのだろう。本もTVも我慢すれば、少しは長持ちするのだろうか。
学校で、級友に「だーれだ」をされるのが怖かった。背後から両手で目隠しされる、あれだ。 私の目を覆わないで。強く目を押さないで。もうじき失明してしまうかもしれないんだから、今のうちに少しでも目を守りたい。お願い私の後ろに来ないで。

青ねずみ

祈るような気持ちでした。良い子にしていたら目が良くなるだろうか、とか、突然魔法使いが来て目を良くしてくれたりしないだろうか、とか、毎日のように本気で考えていました。

「自分の娘が眼鏡をかけた姿なんて、見たくない!!!」

小学校高学年のある年の健康診断の結果に「眼鏡必要」と書かれた。余命宣告のように恐ろしい結果用紙だった。これを家に持って帰ると、母は怖い顔をしていた。夕方、父が仕事から帰ると、母は「(眼鏡のこと)自分で言いなさい」と私に促した。おどおどと、私は父にそれを伝えた。父は夜叉のような顔で、しばらく無言だった。この空気をなんとかしようと、私は照れ笑いを浮かべた。その瞬間、父は苦虫を嚙み潰したような顔で、「駄目じゃないか!」と言った。 私は慌てて照れ笑いをやめ、神妙な顔になった。ややあって、父は吠えた、「自分の娘が眼鏡をかけた顔なんて、見たくない!!!」 あまりの怖さに、私はわんわん泣き出した。ただでさえ、目が悪くなること自体、本人がいちばん悲しいはずなのに、なぜ怒られなければならないのだろう。泣きながら、こんなに涙を流してしまったら失明の日が早まるのではないだろうかと、頭の片隅で怯えていた。 その年、母は私を眼鏡屋に連れて行かなかった。

青ねずみ

なんとか、気合いで見えるようにしなければ・・・。

見えない不便さよりも、眼鏡のないことを優先 ~抜き打ちテストはしないで~

当時、私はピアノを習っていたのだが、だんだんと楽譜が見にくくなってきた。自宅のピアノはアップライトピアノだったので、楽譜立てが顔のそばにあったのだが、ピアノの先生のところではグランドピアノである。グランドピアノの楽譜立てははるか上の方に位置していたので、これが見にくくなってきたのだ。小学生の私は、ピアノの先生の家では常に暗譜で弾いていた。見えないことは先生に黙っていた。譜読み間違いを指摘された時も、「あ、ほんとだ」と言い、なんとかしのいだ。ピアノは(別の理由もあって)小5で一旦やめた。

自宅では、家族でTVを観ている団らん時、父や母から急に抜き打ちテストのようなことをされることが度々あった。「この字、なんと読む?」と。
「あんまり興味なくて、しっかり観てなかった」という答えでごまかすしかなかった。見えていないことを知られると、母は「こんな大きな字も読めなくなったのね」とため息をつき、父は「いよいよ駄目だな、もう目が潰れるな」と呟いた。ほんとうにもうじき失明するのだろうか。悲しく、恐ろしい思い出である。

私が眼鏡を買ってもらったのは、中学に入学した時だ。それでも、眼鏡を使うのは学校の授業中だけだった。自宅では眼鏡をかけたことがない。

振り返って思うこと

大学生になるとき、親戚からもらった入学祝いを使ってコンタクトレンズを買った。これでやっと、家の中でもTVが見えるようになり、視界が開けたような気分だった。逆に言えば、それまでの間、眼鏡なしで「見えるふり」をし続けなければならなかったということである。

「自分の娘にはなにひとつ欠点がない」と思いたい親の気持ちは理解できなくもない。しかし、親が見ていたのは「理想化された娘」であって、「娘そのもの」ではない。「いい子でいてくれたら愛してあげる」といった条件付きの愛の形と似ている。しかもそれだけではない。百歩譲って、「いい子」は努力によって目指すことができるが、「目が悪くない女の子」は努力によっても目指しようがないのだった。

思えば、父も母も近視なのに、二人とも眼鏡をかけていなかった。父が眼鏡嫌いだったからである。父は、(眼鏡を所有しているにもかかわらず)車の運転中にも眼鏡をかけず、パトカーが近づいた時だけ慌てて眼鏡を探してかけていた。普段は見えないままで運転していたようだ。急ブレーキが多く荒い運転だったので、同乗する私たちは車酔いしやすかった。信号に近づいてからでないと見えなかったのだろう。
(余談であるが、私が20代で車の運転免許を取った後、運転練習のために父に助手席に乗ってもらったことがあった。赤信号の手前で私がブレーキを踏み始め、それから数秒間が経ってから、助手席の父が「あ、赤だ」と教えてくれるのである。父の運転がいかに危険なものであったか、改めて実感したのであった。)

母も、近視だったが眼鏡を使っていなかった。しかし、後日弟が眼鏡を使い始めた時は、父は嫌がる様子もなかった。父は、とにかく女性の眼鏡姿が嫌いだったようだ。母も見えないまま苦労していたのだろうか。

近視と失明が直結するものではないと知ったのは、大人になってからである。
無駄に怯えさせることのないよう、正しい知識を子供に与えることは重要である。

読んでくださった方には、「赤ちゃんが生まれた頃には大喜びだったのに、その後怖い家族に変貌していった」というように見えるだろう。父は一貫して子供を愛しはしていたが、だんだんと酒量が増え、生活が荒れるようになった。それによって、母も余裕を失っていった。この時間軸の中に「弟の誕生と成長」という要素も関わってくる。弟誕生後の変換についても書くつもりである。 

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この記事を書いた人

虐待サバイバー医師です。内科医兼精神科医です。医学部再受験の時のことや、自身の歩んできた道、思うことなどを書いていきたいと思っています。

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